龍魂録

下記文章の一部は、長谷章宏氏の著作集「たま出版」より抜粋したものが多数あります。

教育に関する勅語より

ナンジ臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ

学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重

シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ

武道通信寄稿文
現代に引き継ぐべき武道精神とは?

我々が生きているこの日本社会の中で今起きている事は、眞の日本人としての誇りと尊厳を失ってしまった事である。
通常の社会生活においても、武道
(武術)の世界においても同様な事が
起きている。その武道精神とは何か?現在、梁山泊空手道の道場訓には、上杉鷹山の残した言葉を使用させて頂いてる。「梁山泊は先人より後継者へ伝え候組織にして、我私すべきものに之なく候。」これを実践すべく努力の日々である。それは、日本という国が、誇りを持ち、世界の見本とならなくてはならないのであり、その社会形成の根幹をなす、家族制度が根底から崩れ、親子、友人の絆が崩れひいては全ての信頼関係を失いかねない社会になってきてしまった。しかし、それは表面的な問題かも知れない。武道(武術)の基本は、生きる事(命を守)であり、生きると言う事が、子孫の形成になり武道(武術)の継承にも繋がってきたのである。その生きる事そのものが人生であり、葉隠の「武士道とは死ぬ事と見つけたり」に集約される。死ぬ事は、いかに人生を大事に生きるかの裏返しの言葉であり、それだけ自分の人生を見つめ、人間はいかに生きるべきかの最終的言葉として捉えたのではないのか。基本的に武士(サムライ)とは、殿の為に死ねるかが重要であり、それができない人間は、排除された。その武士への指南役が武術家(剣豪等)であり、武士とは、一線を画していたのである。武道(武術)とは、武士が習っていた技術(殺人術)であり、武術は、武士道とは別物であり、この武士(サムライ精神)と武道(武術)とは区別して理解しなければならない。その武道(武術)は、現代社会にまで継承されてきた貴重な日本の財産であり、いかに生き延びてきたのかが重要なのである。その流派の継承者が死に絶えたら、その流派そのものが消滅し残っていないのである。故に武道(武術)とは、生きる事そのものである。その武道精神が消え去り、命の重みを失い、「命」そのものが軽視され、遊び・ゲーム感覚で人の命を奪うのが現代社会でないだろうか。だからこそ現代に生きる我々武道家が規範・模範を示し、細かい礼儀・挨拶から社会人としての礼儀作法などを身をもって示す必要がある。その中で、幼少時から武道(武術)に親しませ、武道(武術)を通じて礼儀・挨拶・護身術(自己防衛)を習得させていく事ができるのではないだろうか。武道(武術)の基本が生き延びる事にあるとすれば、まず第一に自分が強くならなければならない。強くなればこそ自分の妻・子供・家族を守れ、ひいては日本全体を守る事に繋がっていくのである。自分だけが良ければいいという自己満足・自己の欲求・社会への不満などが犯罪を生む。その一例として、成人式での暴挙などがある。自分に対し、社会に対しそして日本に対して誇りの持てない社会人が余りにも多くいる。私は、日本の日の丸(国旗)ほど美しく、洗練された国旗を見た事がない。世界中探してもこれほどの「旗」があるだろうか。また、日本という国名も同様である。日ノ本(火の元)国であり、太陽の直統国という意味がある。そんな名前の国は世界中探してもないのである。国名・国旗だけでも誇りが持てる国なのに、自分でその誇りを捨て去ったのが今の日本人ではないか。国歌である、「君が代」の意味でも「きとみの代」である。き(氣)とみ(身)が(一つ)に成る(代)。つまり肉体と魂と心が一つに成り三位一体と成るのである。日本は、世界の雛形であり、民族の誇りと尊厳を武道家(武術家)自らが示さない限り民族再生の道は閉ざされてしまいかねない。だからこそ眞の武道家が、眞の武術と精神を継承し、後継者へ伝えていかなければならないのである。
坂本竜馬が幕末に言ったよ
うに、この国は一度「大掃除・大洗濯」しなければならない。いまがその時期である。

日本武道空手道連盟 梁山泊空手道連合

                       総帥・富樫宜弘


眞のヒトと成るため道
どんなに苦しい事が、あっても辛抱が肝心であろ。
決して他人を責めてはならない。
自分のした事が、目の前の結果として現れて来る。
その人達は、その困難な状況は、それを見せてくれた存在に過ぎない。
苦を避けると言う事は、楽も遠ざけてしまう事になる。
人も自分も受け入れ、人も自分も許し合い、人も自分も認め合う事が、大事なのである。
人を責めないという事は、自分をも責めないという事と同じ意味を持っている。
反省したり、自らを追い詰めたり、自らを嫌いになる事は、何の意味を持たない。
未来や現在に何の変化ももたらさない。
人は体験を通してのみ、成長できる。
体験を怖がり、拒否している限り、何の成長もあり得ない。
体験できた一つ一つが、自らの真実であり、答えなのである。
自分を責めない代わりに、まず自分を受入れる事を身に付け。
次には自分を許すという事を身に付け、最後には自分を認めるという事を身に付ける事になる。
その体験を基本にとすれば、人と係わる時、その人が自らにしたごとくに人を裁くという事は、
おのずと出来なくなるのである。
本来、人が人を裁くという事は、あり得ないオカシキイ事なのである。
自らの魂を見つめる心の目がつぶれている事にすら気づかず、人と争い、自らと争い、
満たされない心でさまよい、疲れ切る。
これが自業自得だと気づいた者は、何とオカシキ事にエネルギーを使っていた事かと思えるはずである。
もう魔釣りの争いは十分でござろう。
                        「長谷章宏」氏の言葉より


魂は、永遠に活き続け、人は生れ変わる。生まれ変わる事が解れば、死とは何だ。
貴方の人生は、貴方自身が選らんだ、だから全ての責任は、貴方にあるんだ。

病気やケガ、事故などは、知らせ、本来なら病院は、要らないもの
苦がある、病気があるのが当たり前と言うのは間違い、苦がないのが当たり前

自己破産して借金から形で逃げても理念の世界の借りは残る

約束違反やルール違反をすれば自分自身が苦しむ事になる

今一流企業に勤めていても保証はない 今失業しても今後は解らない

働くは、他が楽になるのが働キ

みんなが仲間、みんな同じ心、自分の好きな事ができるから同じココロであっても一人ひとり違う。これが本当の個性の尊重

戦争は戦いの想念を持った人間が創り出したもの

言った事を行動に移したとき、信頼と引き換えに望みのものが与えられる

自分に起こったことを自分自身100l許して、与えられる苦も喜びも次々に受け取っていったときメグリが清算されて、自動的に自分の欲しいものが簡単に手に入る状況がくる

すべてアベコベの世界、正直者はバカを見ない、形で損をすると魂で得をする。損をして得をするから損も得もない

自分が苦しいのは、つらいのは、今まで自分がやってきた不調和創り出す行動で回りに与えていた事を自分自身が体験しているだけ。自分がしたことを体験して辛抱すれば自分がした事の清算


「情けと花の仕組み」

この方はそなたが不調和を創りだしたときに自分自身で氣付いて調和に戻せるように情けと花の仕組み】を創ったのであるぞ。
そなたがバラまいた不調和と同じだけの
【苦】を与えて知らせて自分のしたことを自覚させて、お詫び、感謝、改心したら【楽】になるようにしたのであるぞ。改心というのはそなたが分かったこと、氣付いたことを行動することであるぞ。お祈りや感謝の言葉だけではだめであるぞ。そなたが分かったことをそのまま行動することで改心した証拠になるのであるぞ。

ココロの掃除

身魂【ココロ】の掃除というのは【ココロ】の声を使ってそなたが持っている【あやま知】を「【神の智】に交換して行動する練習をすることであるぞ。魂を磨くという事は、したことを素直に引き受けて、被害を素直に受け入れて、しただけ責任をとること。
血 統
家族や子供をほおっておいてよいのか、と申すような罪悪感は必要ないぞ。身魂の系は肉体の家系とは別々でござるぞ。霊統と血統は一致しておらんぞ。

自 立
親と申すのは、子が自らの意思で行動できるようになるまでのお役目でござるぞ。子が自らの意思を持ち始めた後で、アレコレと考え方に口出ししおれば、それは信教の自由侵害でござるぞ。子供だから、学生だからと申すが、子供を子供として扱い、肉体の年齢や性別で一律に教育することが平等じゃ等と申す魔釣りの者に騙されて自立できんようなシステムを創りだしたのはそなたらであろう。
アタマで分かっても意味がござらん。チシキでは何もならん。知識を実行して智慧にせよ。そなたの知識と体験が一つになった時が真釣りでござるぞ。



為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり

                      
上杉鷹山(米沢藩主)      


  
 しき島の やまとごころを人とはば 朝日ににほう山ざくら花
                     
                 本居宣長



 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂   
                     
                  吉田松陰