≪人間の罪〜嘘・自殺 ・裏切り〜神は、自分の心の中に居る〜自体験・自責任が梁山泊の基本精神≫
≪+(良い事)と−(悪い事)=0 が神の領域 =人生を重ね合わせると答がでる≫
【口・心・行の三位一体 = 心の掃除こそ自分と貴方を救う唯一の道である】


 梁山泊空手道は、誰もが成し得る一撃必倒のパーフェクトメソッド迎撃拳を創始した。それは体力・運動能力・年齢を超え、誰もが悟りの境地に達する為に平等に与えられたチャンスである。
 眞の空手道のみが有する、至高の境地へ辿り着くための道、それが梁山泊空手道である。梁山泊の迎撃拳は、その名のとおり、相手の突き・蹴りを待ち構え、瞬時に必倒の一撃をヒットさせる。そのためには、こちらの態勢を崩されない受け技こそが最重要課題となる。さらに、受けが、受け技だけに終わっては何もならない。一打必倒の攻防の中で同時に、完全な迎撃技が存在しなければ、一撃必殺とは到底なり得ない。
 梁山泊では受け技だけの練習は行わない。つまり受けプラス攻撃ではなく、受けイコール攻撃で、はじめて「迎撃拳」となる。梁山泊の受け技は五技、その一つ一つが、イコール迎撃拳である。受けた瞬間、相手の全ての攻撃を迎え撃つのである。
 様々な稽古も、この五つの技(迎撃拳)を身に付け、磨き上げることを目的としている。梁山泊の練習テーマは必倒の威力を持つ打撃を身に付け、その相手の突き蹴りを、完全に受け、且つ、攻防が同時に行われる迎撃拳の形を身に付けることに集約される。
 基本では、極端な程動作を大きく、技の伝わり方を辿るように、ユックリと手・足・腰の動作を覚え込む。その形がある程度崩れなくなった段階で、移動・ミット練習などで一打必倒の破壊力をつけるため、思い切ったフォロースルーで 突き込むようにする。
 とにかく反復練習で量をこなし、技自体の質を高めてゆき、体に染み込ませる練習体系である。
 空手にとって運動能力は関係ない。のろまな亀でもゴールは一つだ。技はユックリ確実に覚え、磨き、時には体力の限界まで、時にはユックリ自分の体に染み込ませ、最高の心技にまで持っていく。決して焦らず造り上げていくのである。
 
 我々梁山泊は、偉大な「拳聖達」が造りだした空手の境地を目指した。目指す境地は一つである。しかし、登る道は人 生のように色々あって良いと思う。
 どんなに正しい理論があっても、その理論を技として現実化するのは、他ならぬ自分自身だからである。何々流空手だと自慢したり、強さを保持するのではなく、素直な心で優れた技を吸収し、どれだけ練磨するかであり、その「指導・上達法は指導者の責任の中」にある。
 空手の技は、他の格闘技に学ぶより、空手(武道)本来の技を追求すべきであり、だからこそ先人は空手に「道」と言う名を付けたのではないのか? 空手流派間・格闘技間の最強論争ではなく、誰もが強くなれる上達法であり、強くしてやる指導法が重要な問題なのだ。
 梁山泊の目的は、極一部の運動能力の優れた人達だけではなく、極普通のヒトが、学校や会社帰りに練習しても 強くなれることである。30代から40代のビジネスマンでも現役として、10代から20代の青少年と練習が行える体系が梁山泊にはある。その究極に近づく事がまた、体力・年齢を超えた心技の世界を広げて行く。辿り着くのは遅くても、一生涯登り続けることができる空手である。空手を習う多くの人達は、極普通の社会人であり、そういう人達が空手界・武道界を支えてくれるのである。そんな所から本当の意味で、自分自身の可能性を見出し、自信に繋げていくことのできる体系が、梁山泊空手道には存在している。

「継続は力なり」まさにこの言葉が梁山泊の稽古を象徴して いる。
空手が身を守る事を第一義とすれば、当然受け技が重要となる。負けないことが身を守ることにも繋がる。その究極の空手を追求した結果、「迎撃拳」は誕生した。
 弱者から強者へ、世代を超えた空手をめざす梁山泊は、誰もが強くなれることを目的としている。自分に向いているかどうかよりもまず 好奇心を持って試してみることが「自己改革」の一歩である。それが転機となりチャンスとなる。
 
 大会の中で幾度となく迎撃拳は発揮された。しかし、全員ができた訳ではない。全ての会員が、常に完成を目指している訳ではないからであり、健康・護身の為に入った会員も多くいる。その中から武道として空手をとらえ、「一撃必倒」の突き蹴りを迎え撃つ至難の技を、究極の武道空手を志す会員が完成を目指し、その戦いの中で、迎撃拳が試され、発展・進歩してきたのである。指導者と弟子が一体となり、完成を目指した結果 として「迎撃拳」は誕生した。 
 




 空手を始めるキッカケは、何だったかを考えて下さい。
勇気をだして見学に行ったり、様子伺いで電話をしたりと、人それぞれだったと思います。その動機となるものは(心)だったはずです。心が先で行動はついてきたものです。
 と言うことは、肉体は心(魂)についてきた事になります。動機はそれぞれ違っても、友人に誘われた。ポスターを見た。親に勧められた。とは言っても全て自分がとった行動であり、自分の心に従ったことになります。それが自体験自責任です。
 どんなに勧められても嫌なら断れたはずです。ここから 〇・零から始るのです。一からではなく 〇・零 ・ゼロから の出発です。赤ん坊からの出発です。
 空手は自分の為に修行するものであり、他人の為にやるものではない。自分自身を鍛え、日々練磨し、身と魂を磨くものであり、それがやがてヒトの為に役立つ事にも繋がってゆき、調和のとれる修行の始まりです。練習を苦な練習・楽な練習と分ける事を辞め、初めから苦楽など無いものと思って練習すれば良いだけです。


 人間にとって、この大宇宙のなかの地球、私達の故郷である日本、そしてそこに住む日本人とは、どのように生きてきたのか?
 この地球上の国々の中で、日本は諸外国の親、諸外国は子であるという立場に立ち、親(日本)として子(諸外国) の真似をするのではなく、親として見本を示し、親の背中(日本)を見て子(諸外国)が育つようにする事が古代日本の役目だったと言われている。
 私達が会話する日本語と外国語の違いは、外国語は肉体と肉体の通信手段としての言葉であり、日本語の五十 音は眞理(神の理・神理)と対話する言霊と言われ、一つ一つの仮名文字にも意味があります。
 縄文時代からの神道の祝詞(ひふみよいむなや・・・・・・)や神代文字として綿々と受け継がれてきた言葉(言霊)です。その神代文字は、世界中の古代遺産に残された文字を全て解明できると言われています。それは日本発の文化が古代に花開いており、その遺産として残った物と言えます。その日本の財産のひとつが「悟り」である。
 西洋渡来スポーツ界に於いて、悟りという発想は全く無い。
 「勝ち負け」だけのゲームの世界がスポーツである。


 武の道の本質は、悟りへの道である。
 この時代の侍達がどうして藩主に命ぜられれば切腹できたのか。
彼らは、何時死ぬか知れない我が身の為に、生きることの大切さ、命の尊さを一番知っていたのであり、だからこそ一瞬一瞬を、一日一日を大事にし、何時でも死ねる覚悟ができていたからこそ切腹できたのである。
 「武士道とは死ぬことと見つけたり」「覚悟の道」が武士道の「悟りの道」である。

 空手道における「悟りへの道」とは、眞理への自己改革であり、自己との対話である。またあらゆる武道・仏道・神道 華道・書道など道を追求する修行も同様に、身と魂を磨き追求する道であり、自分自身に自問自答し見つめ直す道で ある。自問自答とは、自己責任で(親・友人・知人・会社・学校・社会など)自他への責任転換ではなく、すべて自らの 責任で行いをまっとうする事であり、自分自身で選択した過去の言動行動は、必ず自分自身にカエル言葉と行いであり、言行一致か不一致かは、本人の自己責任である。
 「悟りへの道」とは、「眞理(神理・神の掟)と人間の真理の差を取ることであり」、座禅・瞑想・武道修行だけが悟りを得る手段ではない。眞理を実践して・実行して初めてその差が取れる。差取れる「悟れる」のである。
 「眞理」を実行する事だけが「悟りの道」である。「眞理」の実践は、問題を創り続ける心・自分だけ善ければ良いと 言う、相対二元の争いゲームを辞め、魂を磨き、心の掃除をすることである。
 「ココロの掃除」とは、善悪・正誤・苦楽に分けて考える「分かつ知」を辞めて行動することである。
 「あやま知(過ち)」の常識をキレイさっぱり捨て、善悪の裁き・真偽の判断・恐れの思考・責任転嫁・責任追及・コン トロールのゲームを辞める事である。つまり人間の知恵の思考を辞め、サトリの思考、知識から「知恵」、「知恵」から 「智慧」」へと変えることである。「知恵」と「智慧」の違いは、人間の「学」の結晶が「知恵」、眞理(神理)の教えが「知慧」である。
 宗教・哲学に頼らずとも、自分の事は自分でやるということを基本とし、他と調和(お互い足りないものを満たし合う)する事が、他力本願から自力本願となり、他人を「訴えたり、恨んだり、批判したり」せずに済む事になる。
 「困った時の神頼み・仏頼み、適わぬ時は神仏・他人・社会のせいにする責任転嫁が無責任」自分の信ずる宗教 (神・仏・哲学・思想・経験)だけが正しく、他が間違っているなどと言わず。外に(自分外)に神を求めず、自問自答 する自分の魂との対話で、内なる神(心)と話す事が眞理(ゼロ・〇・零)からの一歩となる。
 「直感・ヒラメキ・などが非常に大事な神理(ココロ・魂)との対話となる。「正誤・○×・損得・平等不平等・自由不自 由・善悪・美醜・文句・不安・心配・責任追及・勝ち負け・調和不調和・正悪」全て自体験自責任。我欲・我善のココロ を捨てれば、ココロ(魂)の掃除が始ります。全ての出来事・経験・体験を受け入れ、自己責任で、自分の目指すこと 空手道・柔道・剣道・日常生活などを行う時に、心技身魂磨きをココロがけ、神を外に求めず、自分自身の心(魂)と の対話が、神と話す事であることを自覚し、外の宗教に頼ることなく、神・仏(祖先)と対話する、新しい自分を見つける事ができるようになる。「自分の与えたものが自分に返ってくる・自分の行動・言動は自分に返る」
 
 次に、人間の「財産」とは何か? お金・家・家族・地位・名誉など、色々な答えが有ります。しかし、これらのモノはすべて消えてゆくモノであり、最後に自分に残るのは、「体験」だけである。だから「苦・問題・ケガ・病気・事故」は過 去のメグリの自己清算と思い、私も含め、あなたの「体験」は誰にも取り取られることのない「財産」である。
 明るく・楽しく・嬉しく生きることが、すべての「楽」への近道、サトリの道となる。


 「日本語の始まりは、日本固有文字を原始日本語の記号化されたものと定義し、平田篤胤が神字日文(カンナヒフ ミ)と呼び、その他の学者が、日本神学あるいは日本古代文字とよぶものがそれ(神代文字)にあたるという。ついでカナ文字を神字(カンナ)と仮名(カリナ)の二つに分け、神字は神武天皇以前より伝わったもの、仮名は原始日本語 に後代朝鮮をへて中国から輸入された漢字の音を仮りにあてたもの(代表例が万葉仮名)にいたったという。
 いわゆる片仮名は、本来は象形神字(カタカナ)に由来し、数次にわたって簡易化され、現在の形になったのであり 、吉備真備(きびのまきび)(片仮名の制作者として伝えられる)は、作者ではなく整備者であるにすぎない。一方、平仮名は漢字の草体から発達したことは認められるが、空海創作になる「いろは四十七音」以前にも、四十七音の宣詞 があったという。
すなわち
「ヒフミヨイムナヤ、コトモチロラネシ、キルユキツワヌソ、ヲタハクメカウオエニサ、リへテノマスアセエホレケ」という 大祓い祝詞(おおはらいのりと)の「太祝詞言(ふとのりと)」の配列をかえて、「いろはにほへ・・・・」という仏に捧げる ことばに改作したのが空海だとしている。」
「謎の竹内文書」佐治芳彦著 徳間書店より


 進化論という亡霊が、我 日本の義務教育課程の教科書に載っている。
 米国では学校によって、聖書の人間の起源を元に、神が人間を創りという「アダムとイブ」の話から人間を捉えて教えている学校と進化論を起源として教えている学校がある。
 進化論とは、類人猿から人間へと進化したというダーウィンの「進化論」である。ダーウィンが何人かは別にして、 我々の永い歴史の中で、何万年、何億年の時代が過ぎ去ったかしれないが、体型は食物の摂取量 ・種類で変化することはあっても、脳の知識が増えることがあっても、我々人間がこの先何か別のものに進化すことが有り得るだろうか?「生まれ成長し、やがて老化し死に至る」
 21世紀を迎えた現在、古代文明の発掘が進み新たに発見された古墳などから、縄文時代のことが 明らかにされつつある。
 縄文時代が、1万年以上続いていた事も解ってきた。その頃から日本に住んでいたヒト達、世界のヒト達にも意思 の疎通としての言葉が有り、衣食住の場があった。米を作り、食物を加工・備蓄をしていたことも解ってきた。遠くオ ーストラリア・南米に渡ったという縄文人の痕跡も残っている。

 

 縄文時代後期、やがて渡来してきた弥生人達が、縄文人にとって代わり、日本を支配し約三千年になる。スキタイ騎馬民族・弥生人(ユダヤの一部)が鉄器と農工文化と漢字をもたらし、漢字に対する文盲をつくり、一部の支配階級 が日本を支配し、それまでの歴史を切ってしまった。日本の始まりは神武天皇となり、古事記、日本書記の歴史が始まり、そして万世一系の天皇制度と続く日本の歴史が造られてきた。世界に類を見ない日本国天皇の歴史は、実は世界史に相当するものではないだろうか?
 鎌倉時代に初めて武家政権が樹立され、やがて織田信長・豊臣秀吉・徳川と続く武家政権の長期間の日本支配 があっても、天皇制度は守られ維持されてきた。
「天皇家」は、約二千年前日本を支配した人達でさえ、利用し奉り天皇制度を維持してきた。しかし、それ以前から天皇が存在していたと言う文献は多数残されている。古文献は、支配した側と支配された側両方の文献『竹内文書・富士文書等/古事記・日本書紀等』が残されているが、支配者は常にそれ以前の歴史を消すために文献を焼き払い建物を破壊してきた。
 日本でも同様に多くの神社と文献が消された。しかし日本は、日本人は先祖代々より伝承された風習・言葉・習慣など、多くのものを現代まで残し、輸入された文化・物を緒捨選択し消化してきた。その日本民族の智慧の歴史を消すことは誰にもできなかった。
 つまり日本独自の歴史が根本的に天皇中心の歴史であり、原始神道・縄文神道以来の日本天皇の歴史が、そのまま日本の歴史(世界史)と言えるだろう。
 どんな社会体制(支配されても)になろうとも天皇制度は存続してきた。
「その天皇は、神の型示し」として永遠に存在し続けるのである。



その一つの回答として、すべての責任は自分でとる。日本の責任は日本でとる。諸外国も同様に自国の責任は自国でとる。その前に日本が諸外国に見本を示し、自らの足元から改革・改心することであり、自己改革が日本を変え世界を変える事になる。自分が変わらずして廻りを変える事は出来ない。』
貧しい人・国を救済・可哀想な人々を救う・全て自立するまでの間。
果たして本当の救済とは何だろう。
親切とは別である。
本当の自立とは、黙って見ている事かも知れないからだ。



 我々が日常の生活で使用している(物)は、すべて与えられた資源を変化させ生産利用している(物)である。電化製品・自動車・家・食物・石油製品・ガスなどのあらゆる物質は、地球上の自然にあった物を加工し・植林し・栽培し・生産したものである。
 それ「自然」は、果たして誰の物だったのか?
 文書として残っている歴史以前から、人間はこの地球に住んでいたことは考古学的にも明らかになっている。その 頃から貨幣で物を取引していたのだろうか?
 人間が貨幣で物を流通する以前から、自然(神)の恵みである食物はあったであろうし、生活(衣食住)に必要な物 は全て揃っていただろう。それ以後の人間生活は全て便利の追及であり、殺傷能力の高い武器の生産力向上と戦争の歴史である。それと、「一部の人間が貨幣の製造利権を握り、利潤の追求・支配・相対二元の争いを演出し」双方に武器を売り、私腹を肥やし、全て金(マネーゲーム)の社会にしてしまった。
 自然破壊によって得た物質を加工生産し、それを物流ルートに流し、それに群がり、リザヤを得た人間の歴史、それに流され利用された人間の歴史が 20世紀までの世界である。自然を自分の物にし、土地取引をして売買することが許されるのだろうか?
 便利と引き換えに、ヒトが本来身に付けていた感覚・予知能力などは退化してしまい、自然を破壊し、地球環境は人間の力では直せないところまで悪化してしまった。人間の限界を見せつけられているのが現代である。人間の拙い知恵の限界である。地形が変わる程の自然の力での「大掃除・大洗濯」が必要であり、地球自体の自己改革が起きているのが今この時なのだ。ここからが眞(神・心)の世界の始まりである。いよいよ「ミロクの世」が近づいて来た。


 日本には昔から八百万の神々がいるという。日本の国土自体が国常立(クニトコタチ)の尊の御神体とも言われている。日本を広げれば世界の五大陸になり、縮めれば日本になる。「北海道は北米」「本州はユーラシア大陸」 「四国はオーストラリア」「九州はアフリカ」それに台湾を加えると「台湾は南米」になる。その世界五大陸は人間で言えば五体で、日本はハラの部分であり、ココロである。世界の腹「ハラ」として、アタマで考えるのではなく、「ハラ」で栄養を取り「ハラ」で考える民族として日本人は道を求めてきた。
  それが前に書いたように、
 「当時日本を支配した渡来系の民族」による漢字革命(万国史抹殺運動)によって日本人の 歴史的記憶(伝承)は、日本の正史から排除され、伝承を記した古文書類も処分され、日本イコール世界の親(祖国おやぐに)としての立場は抹殺されてしまった。
 佐治芳彦氏はこう言っている
「ともあれ上古第二代。神々の子孫がこの新しい住地である地球に住んで、第二の世代が生まれたころだ。気候温 暖で、地球の楽園であった天越根国(あめのこしねこく)の青空にへんぼんとひるがえっていた「白地に赤」の日章旗 。これは地球の各地に住む五色人たちに対し、「太陽の直統国」−自分たちの真の祖国(おやぐに)−への無限の誇リと憧憬とを慫慂(しょうよう)するシンボルだったのであろう。
 このシンボルが、大異変のために衰亡した「上古二十五代」王朝に代わって、新たに地球に君臨した「不合朝」によって、やはり国旗として採用制定されたのも、同王朝が「太陽の直統国」としての自負を抱いていたからではなかろうか」
「神倭朝に入ってから、一部外来人グループによってひきおこされたこの一連の運動−万国史抹殺運動−を、竹内文書関係者は「漢字革命」と呼んでいる。つまり漢字渡来以前の古代の仮名文字(神代文字の一部)を排して、難解な漢字を採用させることによって、人々のコミュニケーション機能を低下させたのである。この陰謀は、人びとの知的レベルを低下させ、文化の遅滞を招いただけでなく、結果的に「神代の万国史」を抹殺することによって、人類の歴史を大きく歪曲させることとなった。」
「漢字革命を現代ふうに言えば、コミュニケーションの媒体に漢字を導入する事によって、情報を意のままにコントロー ルすることである。」
「人民より仮名文字をとりあげ、難解な漢字を導入し強制することによって現実化した」
(「謎の竹内文書」佐治芳彦/徳間書店 )
 
 
現在のマスメディア・テレビ・ラジオ・学校教育・英語教育・英会話教室・パソコン・インターネットも同様の英語革命 (現代版漢字革命)といえるだろう。
 あらゆる自然資源を加工利用し生産した物だけが人間の作った物であり、自然・資源を創造した人間はいない。破壊された自然を創造することは人間の創造限界を遥かに超えている。神の領域である。
 現在、日本社会に渦巻く反宗教的風潮は、逆に自分自身の責任を他に押し付け、ココロの拠りどころとしての、眞 の祖先に対する彼岸のココロを利用した金集め・人集めの宗教になり、祖先がいて自分が居ることにすらきずかず にいる。正月には、神社に初詣に行き、彼岸の時は墓参りをするのが日本人であり、御盆には供養するのが日本人 である。素直なココロで自然の恵みに感謝し、神を敬い、先祖を大事にしてきたのが日本人である。それが「科学万 能主義」が台頭し、所詮人間の「学」で作ったコンピュ−タに支配され、ヒト以上では有り得ない自分達が作った機械 に感謝し続ける。やがて崩壊するであろう民族・宗教・科学、日本は受け入れはするが選択する民族である。日本に起きることは、世界で起きる。日本は世界の雛型なのである
 魂が先か、肉体が先か、現代社会では「体が主で魂が従になっている」物金至上主義を脱却し、人を集める宗教 ゲーム・金取りゲーム・人が人を裁く裁判ゲーム・損得○×正誤ゲームは速く終わりにし、大きく和すると言う言葉の通り、大和(倭・ヤマト)の国に立て替え立て直し、他と調和(足りないものを満たし合う)し、自我を捨て、「魂を磨き・ココロの掃除」をするのが自分を救う 唯一の道である。



 親というものは,子が自らの意思で行動できるようになるまでの役目であり、子が自らの意思を持ち始めた後で、 アレコレと考え方に口出しすれば、それは子への親の自由侵害となる。夫婦の関係も同様に、どの男と女を引き合 わせれば最もココロの掃除が進むか過不足なく全ての者にメグリ渡されている。だから夫へ、妻への口出しも自由侵害となる。縁のない出会いもなく、すべて人の出会いは縁絡み。赤ん坊がやがて自分の足で立ち、転びもするだろうが、あぶないと言って助けてばかりいては、何時まで経っても 自立できない大人になってしまう。このような事は、目の当たりにしてきた。子離れ・親離れできない人間は、やがて自滅の道を歩むことになるだろう。
 「自分が人の心配をするのは、自分自身の不安の裏返し」
であり、神のバチ・神の祟り・先祖の祟り・神の呪い等一切無く、自分自身のココロに巣食う「悪」と思うココロの裏返しでしかない。この世の中には「被害者」は一 人も居ず、人が自体験自責任を貫けば、他人に対する責任追及・責任転嫁は有り得ない。すべて自分がした事が自分に返るだけであり、他・外に責任追求するだけ自分の苦しみを増やす結果となる。自分以外の加害者造りゲームを続け、永遠の争いを解結できず堂々メグリの道となる。人間とは、「人になる間の生」であり、「人が眞のヒト (神ココロ・魂)に成るための道」を「悟りの道」と言う。かく いう私自身が、10代後半から30代後半まで唯物論・弁証法 などを唯一の科学的理論と信奉していました。科学的武道論などと最先端の考え方と思い込んでいた。20年近く科学万能主義で生きてきた。しかし、それは余りにもあっけなく崩壊した。それも人との巡り合わせ。180度の変換。武道関係の本も多数読み「悟り」とは何か?と探したが「極意・悟り」の仕方を解いた本はまったく 無かった。抽象的な言葉の羅列が多く「極意は睫の下にあり」等の諺的なものばかりで、実際の「悟りの仕方・方法論」を解いた文献も武道家も皆無。禅などの仏教に頼っていても悟りは開けないし理解不能です。
武道の訓練・修行・鍛錬で心の自信は創れますが「悟る事は出来ない。」
    

武道の修練は、あくまで技術の向上であり、死と向かい合うココロはそれに伴い付随していきますが、死は別の角度からでも解けてゆきます。体主霊従の考え方からは答えは出ません。あくまで霊主体従でないと理解出来ないのです。極意の意はココロ(魂)を表し、意を極めると言うことはココロ(魂)を極めるということです。空手をやりたいと言う のも同様に、やりたいと思う意思(ココロ・魂)が先で、次に行動(体)に移ります。つまり「霊主体従」です。
 私は学校で、宇宙が先で地球があとに生まれたと教えられました。これは「体主霊従」です。
 自由意志の基本と成るものは、自ら全てを認め、結果の原因となるものを他に求めないことである。武道における悟りの道は覚悟の道です。「覚悟」とは命を捨てて決死の覚悟を持って事に望む事であり、持物を全て捨て、コダワリを捨て、赤ん坊になる事である。外見を飾らず自己改革する事は、まさに決死の覚悟が必要である 。自らが回りを変え、世界を変えられるならば、自らが「神」に成ることである。「神」であるならば出来ない事・適わぬ事など無いからだ。神であるならば、「不平・不満・不安」などまったく 無い事になる。様々な新興宗教の教祖が「自分こそ神だ」と神のフリをして、神をかたり、人民(神民)を騙し・混乱させるものでしかない。
 「神頼み・仏頼みに神社・仏閣・教会に御参り」しても全て他力本願であり、自分の覚悟で自身の「魂・ココロ」を磨く 事が眞に神の参道(産道)からの生みの苦しみを味わう体験に繋がり、自己改革・自力本願となるのである。
 空手の上達に例えれば、指導者が技を教えはするが、それを実際に身に付けるのは習う本人であり、いくらこの技 はこうすれば良いと言っても本人の意思(覚悟)がなければ上達しない。身に付けたいという「強い意志」がなければなにも変わらない。それが自覚の覚悟、自己改革の覚悟となり、ココロも技も上達するのである。
 
 梁山泊空手道では、見学者に必ず体験練習をしてもらいます。なぜなら見ただけでは解らないからであり、自分の体で実感として感じてもらい、それから入会するかどうか考えればいい事だからです。その体験は、自分自身の「財産」に成ります。



 
空手の練習でうさぎのように、どんどん突っ走っても技は身に付きません。中途半端な技だけが残ります。やはり カメのようにコツコツと、一歩一歩覚えることが上達に繋がっていきます。同じ技の反復練習は苦しく・単調で飽きる事もありますが、それが上達への最短距離だからです。「辛抱肝心・継続は力なり」
 階段を登るのに2・3段抜いて駆け登っても、辿り着くまでに疲れてしまいます。赤ん坊が立ち、やがて歩き初めた時は、転びながら歩き方を覚えるという体験を通じて、一歩一歩大地を歩き、転ばないよう体で覚えていきます。 箸の持ち方なども、親がきちんと持てるように教えますが、中々上手く持てません。何度も失敗しやがて持てるよう なっていきます。安易にスプーンなど持たせると箸の持ち方などすぐに忘れてしまいます。そうして親を見本・手本 として成長し、自立できるようになることは、親の財産として残り、育てることの大事さを子に学び、自分を「育ててくれた親の気持ちを追体験する」ことになります。育てて頂いた事は、自分が育てることで返ってきます。親に懸けた迷惑は、自分の迷惑として返ってきます。空手は、礼儀・挨拶に始まり、技の形を覚えていき、その技を無意識に使えるようになるまで磨き上げる段階から、実践で使えるようになるまで訓練します。指導者の役目は技の形を教える事。 つまり地図を渡すことである。練習生はその地図(技)を見ながら自分の足で歩き、確認しながら覚えていきます。その過程において、それぞれ千差万別に、一人一人違う体型・思考で、技としては同じでも覚え方・身に付き方は違って当然のことです。速く覚える者・遅い者もいますが、地図の最終地点は同じです。
 地図を見ながら、ケガして・転んで・迷いながら着実に身についていきます。個人個人が皆違うように、個性あって当然です。この事から違うことが平等であり、バラバラだから全体が満たされるのであり、統一統合が不平等なのである。生まれた時の身長・体重・顔・形が違って当然であるように、違うことが間違いではなく、違う事が当たり前と思える「心」が大事なのである。人は、ロボットなどのオモチャのように、工場で生産された統一規格品になってはならないのである。頭の良い者とは、知識が有り、成績上位の者ではなく「智慧で生き・一から十まで自分でできる者」を指し、自分のしている事を総て解って居る者のことで有り、自覚ある者である。
 不満・不平があり、人に文句を言うことが「悪」ではなく、それ(文句)に対して裁くことが「悪」である。「自給自足」とは、「自ら決めて自ら動くこと」であり、その中で葛藤もなくなり、御蔭が増えていく。
 眞のヒトになるとき「名誉・栄光・功名心・金・家」など関係ないことになる。生きていることが「感謝」であり、生かされている「感謝」の「ココロ」が「サトリの道」の一歩となる。
 「迎撃験から活人拳」の修行が即「悟りの道」と直結している。限りなく「ゼロ・零・〇」に近づくことが空手の極意・神意であり「さとりの道」である。


  さて、ここ数年時代の変化は日を追うごとに感じられ、テレビ・新聞では毎日のように殺人事件・倒産・不良債権処理・異常気象・地震・民族紛争・宗教戦争のニュース流れています 。これらの事を規模を拡大し、
世界同時多発「不況・地震・津波・台風・戦争」と考えてみて下さい。これらの問題は、今までの価値観・対応策では解結できない問題・課題として墳出しています。
アメリカ・ニューヨークでの連邦ビル爆破事件は何故起きたのか?
この事件により、新たな紛争が起き、アメリカは世界中を巻き込み「犯人探し・予想される首謀者の壊滅・軍事協力」を呼びかけました。宗教戦争・民族の対立は途絶える事はありません。   キリスト教対イスラム教・ヒンヅー教対イスラム教・仏教対仏教・白人対黒人・白人対黄色人種。右翼対左翼。


平和と正義の名の元に戦争を続け、死や神を解く宗教は対立戦争し・不思議な現象が増えても科学で解明できず・心理を研究しても自分が解らず・福祉をやるほど貧富と障害者が増え・医学薬学は新たな病気を増やし・法律が増えるほど犯罪が増加し・経済をいくら研究しても赤字は増え続けている。宗教が戦争し・科学に限界があり・教育も政治も不完全なままです。我々人間の歴史は、自然破壊・汚染・破壊兵器開発・身体破壊の連続です


これからの時代は今までの常識・固定観念・道徳では生きられない、まったく新しい時代です。その新しい時代に対応する生き方こそが今必要なのです。地位・名誉・財産・世間の評価を捨てる覚悟が必要であり、一人になること、孤立すること、自分がもっている物を失うことを恐れては生きていけません。自分の創っている現実は、すべて自分が選んだ体験であり、他人の責任であるものは一つもありません。全て自分の責任です。自分の心の掃除が進めば他の為になり、自分の為が人の為です。

    

21世紀は、(調和・秩序 同意交換)の時代です。日本民族の誇りを持ち、国旗・国家を愛し・自然と共生し、21世紀に生きようではありませんか。梁山泊ではこれからの時代に対応すべく、眞のヒトに成るための生き方を実践し、自分を磨き(心の掃除)指導者・会員共に努力しています。

是非 日本人としての誇りと尊厳を持ち、眞のヒトと成るべく努力・精進する事を願うもので有ります。

これをお読み下さった皆様に感謝すると共に、是非、実践して頂けることを願い最終章とします。


  
 


             
梁山泊空手道連合 ・総帥 富樫宜弘


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